『フアン・ロメロの変容(The Transition of Juan Romero)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『フアン・ロメロの変容(The Transition of Juan Romero)』は、H・P・ラヴクラフトが1919年に執筆した短編小説であり、生前には発表されず、死後にその存在が明らかとなった作品である。
本作はラヴクラフトが持つ地下世界への恐怖、未知なる宇宙的存在への接触、人間存在の脆弱性を凝縮して描いており、後年のクトゥルフ神話的世界観の原型と位置づけられる一作である。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集7』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

物語は、アリゾナ州の砂漠地帯にある金鉱山の宿舎を舞台に展開される。
語り手である無名の人物は、そこの職員であり、物語の発端では先住民やメキシコ系労働者たちが鉱山を忌み嫌っていることに言及される。
彼らは、鉱山の奥に潜む「底知れぬ穴」と、そこから聞こえる得体の知れぬ響きに恐怖を抱いていた。
そのなかに、一際奇妙な雰囲気を持つ男がいた。
彼の名はフアン・ロメロ(Juan Romero)である。
ロメロは物静かで、他者と交わることが少なく、いかなる危険も恐れないような雰囲気を漂わせていた。
彼は特に「深い場所」に対して不思議な魅力を感じており、鉱山の中でも最も危険な深部に足を踏み入れることをためらわなかった。
ある晩、語り手とロメロは、鉱山の奥深くにある封鎖された古い坑道へと足を踏み入れる。
そこには、地質学的には説明不可能な「巨大な空洞」が存在し、まるで地球の下に宇宙のような深淵が開いているかのようであった。
ロメロはその穴に魅入られ、語り手が見守るなかで、底知れぬ闇へと引きずり込まれていく。
語り手は、闇のなかでロメロの叫び声とともに、巨大で形容不能な存在の出現、空間の歪み、時空を超えた何かの移動といった異様な光景を幻視する。
やがて彼は意識を失い、気がついた時には地上の宿舎に戻されていた。
ロメロの姿は消え、彼の存在すら誰も覚えていないかのような状況になっていた。
物語は、語り手が「ロメロとは何者だったのか」「自分は何を見たのか」と問いかける形で幕を閉じる。
彼が体験した現象の真相は語られず、ただ人知を超えた存在との接触の可能性だけが残される。
登場人物
語り手(Unnamed narrator)
鉱山の従業員であり、物語の目撃者である。
理知的で常識的な人物だが、超常的現象の渦中に巻き込まれる。
彼の視点は信頼性があるが、その理解は限定されており、最終的には真相を掴みきれないまま終わる。
フアン・ロメロ(Juan Romero)
物語の中心人物。メキシコ系の鉱夫であり、謎めいた雰囲気を持つ。
感情を表に出さず、他人と交わることを避け、何かに取り憑かれたように深部の闇に惹かれていく。
彼が人間であったのか、あるいは異界からの存在であったのかは、明かされない。
他の鉱夫たち(名なし)
ロメロとは異なり、鉱山の「深い穴」に強い忌避感を示す。
彼らは伝承的な恐怖を共有しており、地下に潜む「何か」の存在を無意識のうちに察知している。
地名
アリゾナの鉱山(Unnamed Arizona Mine)
物語の舞台であり、地表文明と地下の原始的・宇宙的恐怖との境界である。
地中深くに口を開ける底なしの穴は、ラヴクラフト作品における「異界への通路」の象徴である。
底知れぬ空洞(The Abyss)
物理的な深さを超えた「空間的異常」の象徴であり、クトゥルフ神話的宇宙の根源的恐怖を先取りするもの。
そこには時間や物理法則の通用しない何かが存在する。
解説
『フアン・ロメロの変容』は、人間の認識限界と、接触すべきでない宇宙的真実との遭遇を描いた、ラヴクラフト的恐怖の原型とも言うべき短編である。
本作の恐怖の本質は、「見えないもの」にあるのではなく、「理解できないもの」「形容不可能なもの」にある。
そしてそれは、しばしば言語によってすら記述不能な体験として描かれる。
また、フアン・ロメロの人物像は、のちのラヴクラフト作品に登場する「異界に引き寄せられる人物」の典型である。
彼は人間社会から疎外された存在であり、人間の姿をとりながらも別の次元に属しているかのように描かれている。
彼の消失は、現実のルールでは説明できない転移、あるいは変質を象徴している。
さらに注目すべきは、本作における「空洞」の描写である。
これは単なる地質的構造ではなく、時間・空間・存在の崩壊点として描かれており、『狂気の山脈にて』や『未知なるカダスを夢に求めて』へと通じる「異界空間」表現の萌芽が見られる。
総じて『フアン・ロメロの変容』は、短い作品ながらもラヴクラフトの思想的恐怖のエッセンスを強く帯びており、クトゥルフ神話の神々の名前こそ出てこないものの、その世界観の地層を支える初期の重要作と位置づけられる。