『神殿(The Temple)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

H・P・ラヴクラフト作「神殿(The Temple)」は、第一次世界大戦中のドイツ帝国海軍のUボート艦長が記した手記という体裁をとる、狂気と神秘、そして失われた古代文明への接近を描いた物語である。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集5』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

本作は、ドイツ帝国海軍のUボート艦長であるカルル・ハインリッヒ・フォン・アルトベルク=エーレンシュタイン伯爵が、大西洋の海底から投棄した手記という形で語られる。
その手記には、ヴィクトリー号撃沈後、奇怪な象牙細工の入手に始まる一連の怪異が記されている。
艦内の乗員たちは次々と精神を病み、死あるいは自殺に至る。
そして艦は未知の南向きの海流により深海へと流され、ついにはアトランティスと思しき古代都市、そして巨大な海底神殿を発見するに至る。
最後には艦長自身が神殿に向かう強迫的衝動に屈し、自らの運命を迎える。
登場人物
カルル・ハインリッヒ・フォン・アルトベルク=エーレンシュタイン
本作の語り手にして主人公。
ドイツ帝国の誇り高き軍人であり、U29の艦長を務める。
科学的合理主義とプロイセン的規律を信奉するが、物語の進行とともに彼の精神は崩壊へと向かう。
クレンツェ大尉
艦長の副官的立場にある将校で、象牙細工の彫像に執着する。
次第に精神を蝕まれ、神殿に「呼ばれる」幻聴に従って自ら水中へ消える。
ミュラー兵曹長、ツィンマー、シュミット、ボームなど
艦の乗組員たちであり、象牙細工がもたらす呪いの影響で狂乱・死・失踪に至る。
特にミュラーは幻覚を口にし、「死者の先導者」たる若者の存在を示唆する。
地名・象徴・モチーフ
ヴィクトリー号
物語の発端となるイギリスの貨物船であり、撃沈後の生存者から象牙細工がもたらされる。ラヴクラフト的な「外から来る異物(artifact)」の典型である。
象牙細工の彫像
月桂冠を戴く若者の頭部を象った彫刻で、ギリシャ的な美を湛えると同時に神秘的な力を秘める。
この像は後に神殿の彫刻と一致していることが判明し、物語の超自然的中核を象徴する。
海底都市と神殿
おそらくはアトランティスと推測される古代都市と、その中にある巨大な岩盤を穿って築かれた神殿である。
文明の痕跡、浮彫、柱、彫像、階段など、すべてが超古代の栄華と異質な知性を暗示している。
この神殿の内部には光が灯っており、詠唱のような声が響くなど、常軌を逸した描写がなされている。
考察
本作は、ラヴクラフトの作品群のなかでも特に「沈没都市」「神殿」「狂気への下降」というテーマを顕著に扱ったものである。
語り手は終始、ドイツ的理性と秩序を信じて行動しているが、最終的には正体不明の力に屈し、深海の神殿へと吸い寄せられていく。
これは「人間理性の限界」を象徴しており、古代の異文明や超常の存在に対するラヴクラフトの根源的恐怖を反映している。
本作において神殿は、単なる物理的構造物ではなく、人知を超えた知性の象徴であり、見る者を狂わせる美と崇高さを宿すものである。
そして艦長が最後に語る「神殿の内部の光は幻覚であり、死は穏やかに訪れるであろう」という言葉こそ、ラヴクラフトが描く「救いなき真理」の響きである。