『通り(The Street)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

ラヴクラフト全集 7 | H・P・ラヴクラフト, 大瀧 啓裕 | 英米の小説・文芸 | Kindleストア | Amazon
『通り(The Street)』は、H・P・ラヴクラフトが1919年に執筆した短編であり、都市の変遷、人間の道徳的退廃、そして土地そのものに宿る記憶と復讐の力を主題とした寓話的作品である。
本作は、ラヴクラフトの強い郷土愛と古き良きアメリカ(特にニューイングランド)への憧憬、そして現代的退廃への批判を色濃く反映しており、怪奇小説というよりも歴史的・詩的な随想譚として読むべきものである。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集7』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

物語の語り手は、人間ではなく一本の古い通りそのものである。
あるいはその通りに宿った精神・記憶・意志のような存在が語り手であるとも解釈される。
物語は、ニューイングランドのある都市に存在する、石造りの舗道を持つ一本の静かな通りの誕生から始まる。
この通りは、17世紀の開拓時代に、敬虔なイングランド人入植者によって拓かれたものであり、当初は平穏と信仰に満ちた美しい場所であった。
沿道には質素で調和の取れた家々が建ち、住人たちは勤勉と敬虔を重んじていた。
春には庭に花が咲き、冬には暖炉の火が通りにほのかな光をもたらしていた。
しかし、時代が進むにつれ、通りは次第に変貌していく。
独立戦争、産業革命、移民の流入、都市化などの波に飲まれ、古き建物は壊され、無秩序な近代建築が立ち並び、かつての落ち着いた空気は失われていく。
住人たちも変わり、暴力、無神論、退廃的思想が通りを覆い始める。
そしてある日、通りに面した廃屋に不穏な外国人集団が集まり始める。
彼らは国家に対する陰謀、破壊活動、反道徳的な計画を練っており、通りの過去の「魂」はそれを感じ取る。
そして、その夜、地震ともつかぬ震動とともに廃屋は崩れ去り、陰謀者たちは全員死亡する。
地元の人々はこれを偶然の事故と考えるが、語り手(通り)はそれが「記憶をもつ土地による報復」であったことを明かす。
通りは再び静寂に包まれるが、そこにはかつての気品や清らかさは戻らない。
ただ、土地は記憶している。かつての誓いと、穢された現在、そして行われた裁きとを。
登場人物
通り(The Street)
本作の主人公であり、語り手。
都市の一角を占める物理的な存在でありながら、記憶と感情、そして意志を持つ象徴的存在として描かれる。
人間以上に永続し、歴史と精神の記録者であり、時に裁定者となる。
初期の入植者たち
敬虔な清教徒たち。
道徳と信仰に生きた人物群であり、通りの「魂」を形作る根源的存在。
名前や具体的な描写はなされないが、理想的過去の象徴である。
陰謀者たち(conspirators)
近代以降に通りへ入り込んだ異邦人たち。
国家への敵意や破壊的思想を持ち、土地の霊的記憶から排斥される。
彼らは通りの裁きによって滅ぼされるが、詳細な民族名や政治的属性は明言されない。
地名
無名のニューイングランド都市
物語の具体的地名は明示されないが、ボストンやプロヴィデンスなど、ラヴクラフトが愛した古都を想起させる。
ここでは「アメリカの道徳的原点」として描かれる。
通り(The Street)
人間社会の変遷と堕落、そして土地の記憶を具現化した舞台である。
時間とともに変化していくが、最深部に刻まれた「初期の理想」は消えることがない。
解説
『通り』は、表面的には「呪われた家の崩壊」という怪異を描いた物語のように見えるが、実際にはアメリカ文明に対するラヴクラフト自身の文化的・道徳的批判が色濃く込められた寓話的短編である。
特に彼が嫌悪した「移民文化」「近代的享楽」「道徳の退廃」が陰謀者たちに象徴されており、通り=土地の記憶がこれを排除するという構図となっている。
このような主題は、今日においては論争の的ともなり得るが、「土地が記憶を持ち、意志を持つ」というコンセプトは、ラヴクラフト作品における超自然的恐怖の起点のひとつである。
『忌み嫌われる家』や『チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件』でも見られるように、土地や建物が記憶・呪い・報復の媒体となる点が共通する。
さらに注目すべきは、通りの「人格化」である。時間の経過を超えて生き続けるこの通りは、人間よりも長い寿命を持ち、人間よりも深い記憶を有する。
これはラヴクラフト的宇宙観において、人間が一時的で取るに足らない存在であることを象徴的に表現しているといえる。
総じて『通り』は、ホラーというよりも都市の精神史を描いた黙示録的短編であり、ラヴクラフトの思想的・感情的基盤を知るうえで貴重な作品である。