『インスマウスの影(The Shadow over Innsmouth)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『インスマウスの影(The Shadow over Innsmouth)』は、アメリカの怪奇作家H・P・ラヴクラフトによる短編小説である。
クトゥルフ神話体系に属する代表的作品であり、ラヴクラフト全集1に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語概要

主人公は、マサチューセッツ州ニューベリーポートの出札係から、インスマウスという町が地元で忌避されていることを聞き、強い興味を抱いて町を訪れる。
インスマウスは荒廃した漁港であり、住人の多くが異様な容貌をしており、「インスマウス顔」と呼ばれる奇形的特徴を備えている。
町には〈ダゴン秘密教団〉と呼ばれる邪教がはびこり、古き神々を崇拝する儀式が密かに行われている。
夜をギルマン・ハウスという宿で過ごした主人公は、追っ手に襲われる悪夢のような体験を経て辛くも脱出に成功し、連邦政府に事の次第を報告する。
のちに政府は潜水艦を投入して〈悪魔の暗礁〉を破壊し、多くのインスマウス住人を連行・収容するに至る。
しかし物語の結末で、主人公自身がインスマウスの血を引く者であり、自身もまた変異の道を辿りつつあることが明かされる。
彼は地上を離れ、深海の神殿への帰還を望むようになる。
主な登場人物
『インスマウスの影』の語り手(主人公)

歴史と建築に関心を持つ青年。
インスマウスを訪れたことで、自身の出自と人間存在の根源に関わる恐怖と向き合うことになる。
ゼッド・アレン(Zadok Allen)

インスマウスに住む年老いた酒飲み。
町の秘密を唯一語れる人物であり、オーベッド・マーシュの神への取引、深きものどもとの交配、そして〈悪魔の暗礁〉に関する話を主人公に伝える。
オーベッド・マーシュ(Obed Marsh)

19世紀の海運業者であり、ダゴン秘密教団の創設者。
南洋の島で得た知識をもとに、「深きものども」との交信・交配を開始した張本人である。
ジョー・サージェント

インスマウスと外界をつなぐ唯一のバスの運転手。
異様な顔立ちをしており、「インスマウス顔」の典型である。
重要地名と用語解説
インスマウス(Innsmouth)

マサチューセッツ州の架空の港町である。
19世紀には造船と交易で栄えたが、疫病と衰退、そして秘密教団の暗躍によって荒廃した。
住民の多くは、異種族との混血によって変異しており、非人間的な外見を持つ。
悪魔の暗礁(Devil Reef)

インスマウス沖に浮かぶ岩礁であり、深きものども(Deep Ones)の棲家とされる。
人間と異種族が接触する場でもあり、物語の終盤では潜水艦によって破壊されたと伝えられる。
ダゴン秘密教団(Esoteric Order of Dagon)

〈深きものども〉を崇拝する異教宗教で、インスマウスの正統派教会を乗っ取る形で広まった。
教団は生贄と引き換えに海産物や黄金を得ることができるとされている。
深きものども(Deep Ones)

クトゥルフ神話に登場する、海に棲む半魚半人の不死の種族である。
人間との交配が可能であり、子孫は成長とともに外見が変化し、やがて人間社会を捨て海中都市へ帰還する運命にある。
考察
『インスマウスの影』は、ラヴクラフトが一貫して描き続けた「未知の恐怖」「人類の限界」「血の記憶」といったテーマを集約した作品である。
特に本作は、恐怖が外部から来るのではなく、自身の血に内在するものであるという恐るべき構造を持ち、物語終盤の反転によって読者に衝撃を与える。
また、当時のアメリカ社会に潜む人種的偏見、外来文化への不安、宗教的狂信への恐れといった問題も、象徴的に織り込まれている。
クトゥルフ神話の中でも、地上世界と深海の異界をつなぐ重要な作品であり、後続の作家たちに多大な影響を与えた。