『潜み棲む恐怖(The Lurking Fear)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『潜み棲む恐怖』は、H・P・ラヴクラフトが1922年に執筆した短編小説であり、4章構成によって進行するゴシック風ホラーと進化の恐怖が融合した作品である。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集3』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語概要

本作では、文明から隔絶された山中に潜む退化した人間の末裔たちという主題が描かれ、人間と獣の境界線が曖昧になる恐怖が表現されている。
語り手は、怪奇現象の調査に情熱を燃やす知識人であり、ニューヨーク州のキャッツキル地方にある「テンペスト山」一帯で多発する嵐の夜の連続殺人・行方不明事件の調査に赴く。
彼は調査の拠点として、長年廃墟となっていたマーテンス屋敷を選び、助手と共に探索を始めるが、次第に、地中にひそむ異形の存在の恐怖と、それが過去に栄えた名家マーテンス家と結びついていることを知ってゆく。
調査を重ねるにつれ、語り手は、地底に潜む種族、マーテンス家の退化した子孫たちが、今なおこの地に生き延びていること、そして人間性を喪失した彼らが、飢えと習性によって人間を襲っていることに気づく。
最終章において語り手は、彼自身が直にその姿を目撃し、現実のものと受け入れざるを得ない恐怖に打ちのめされるのである。
登場人物
語り手(主人公)
本作の語り手であり、怪奇現象を調査する使命に燃える知識人。
科学と理性を武器に、テンペスト山の怪異を追うが、次第に人間理性を超えた事実に直面し、最終的には現実の恐怖と非人間的な存在を目撃する。
助手たち(計3名)
語り手が調査のために雇った補助者たち。
いずれもマーテンス屋敷や墓地、洞窟などの調査中に命を落とす。
中でも地震と雷鳴の中で引き裂かれた死体や行方不明になる場面があり、恐怖の具体化として描かれる。
マーテンス家の人々
17世紀にオランダからこの地に移住した開拓者の一族であり、かつては裕福で教養ある家系であった。
やがて周囲との交流を断ち、山中で近親婚と孤立の中に退化していき、獣性と人間性の境界を喪失した存在となる。
彼らの末裔こそが、「潜み棲む恐怖」の正体である。
地名・舞台設定
キャッツキル地方(Catskill Region)
ニューヨーク州に実在する地方。
本作では、広大な山林に覆われた人里離れた地として描かれ、文明から隔絶された異界的空間として機能する。
テンペスト山はその一角であり、周囲の村人たちは山の奥で起こる異変におびえている。
マーテンス屋敷(Martense Mansion)
17世紀末に建てられた広壮な石造りの屋敷で、今では廃墟となっている。
地下に広がる巨大なトンネル網や墓地の地下構造が、恐怖の源泉である。屋敷の周辺には隠し階段や密室が存在し、語り手はそれらを探索する過程で恐怖に接近してゆく。
マーテンス墓地(Martens Cemetery)
屋敷に隣接した古い墓地。語り手はここで墓を暴き、埋葬されたはずの遺体が存在しないことを発見する。
これは、マーテンス家の人間が地中に潜んで生存している証拠であった。
考察
『潜み棲む恐怖』は、ラヴクラフトにおける「退化」という概念が最も直接的に描かれた作品の一つである。
ここでの恐怖は、人間が獣に戻ってしまう可能性、すなわち理性の喪失と文化の崩壊という形で具現化されている。
マーテンス家は、一度は教養ある貴族的存在であったが、孤立と近親交配、環境への順応によって、人間以下の存在へと落ちぶれた。
また、本作は「怪物の正体が人間だった」という恐怖の元型でもあり、クトゥルフ神話のような宇宙的恐怖ではなく、人間の暗黒面と環境による変異に焦点を当てている。
これにより、恐怖が身近で、より現実的なものとして感じられる構成になっている。
最終的に語り手は、怪物の姿を見てしまい、それが「マーテンス家の血を引く退化した人間」であることを知る。
理性をもって臨んだ探索が、理性では捉えきれない現実に敗北する構図は、ラヴクラフト的恐怖の典型である。
『潜み棲む恐怖』は、ラヴクラフトの中でも最も分かりやすく、映像的で、サスペンスと怪奇が濃厚に融合した一篇であり、初期作品の中でも非常に印象的な位置を占めている。