『魔犬(The Hound)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

H・P・ラヴクラフト作「魔犬(The Hound)」は、1922年に執筆された短編小説であり、墓所荒らしという背徳行為を通じて、呪われた遺物の力に触れた者がたどる破滅を描いたゴシック風の怪奇譚である。
ラヴクラフト作品の中でも初期の傾向が色濃く、耽美と背徳、狂気と復讐が主題として表現されている。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集5』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

物語は「わたし」と名乗る語り手による一人称で進行する。
彼は「セント・ジョン」という名の同胞とともに、世俗の快楽に飽きたあげく、死と退廃の美に心酔し、墓所荒らしや禁断の儀式に耽るようになる。
二人はオランダの片田舎にある古墓に目をつけ、そこに眠る貴族の遺骸から、謎めいた緑色の宝石の首飾りを盗み出す。
しかしその日を境に、二人の身辺には不可解な現象が相次ぎ、やがてセント・ジョンは恐怖のうちに惨殺され、語り手自身も狂気と死の淵へと追い詰められてゆく。
登場人物
「わたし」(語り手)
物語の中心人物にして語り部。
セント・ジョンと共に墓所荒らしや黒魔術に耽る退廃主義者であり、当初は死に美を見出す観察者であったが、呪われた宝石を手にしたことで自ら破滅の道を歩む。
物語の終盤では、魔犬の幻影に取り憑かれ、最終的には自殺を決意するに至る。
セント・ジョン(St. John)
語り手の同胞であり、共に死の美学を追求する人物。
語り手とは対等のパートナーでありながら、魔犬の怒りによって最初の犠牲者となる。
死体は無惨に引き裂かれ、その死には人智を超えた力が働いていたことが示唆される。
地名・象徴・モチーフ
オランダの墓所
本作の転機となる舞台であり、緑の宝石を盗み出した古墓が存在する。
墓は荒野に埋もれ、忌まわしい秘密を守り続けていた。
埋葬されていた人物は「地獄の犬を崇拝していた」とされ、その信仰が物語の中心にある呪いと繋がる。
緑の宝石(首飾り)
墓中の骸から奪われた古代の首飾りで、邪悪な力を秘めている。
宝石には魔犬を召喚し、身につけた者を呪う力があるとされている。
クトゥルー神話的には「ネクロノミコン」や古の信仰とのつながりが暗示される重要な遺物である。
魔犬(The Hound)
直接的に姿を見せることは少ないが、唸り声、羽ばたき、そして遠吠えによってその存在を主張する、超自然的な復讐者である。
地獄から召喚されたかのようなその魔物は、遺物の冒涜に対する怒りの具現であり、人間の罪に対する報いを体現している。
考察
「魔犬」はラヴクラフトが初期に試みたゴシック的怪奇譚の代表であり、のちの作品に見られる宇宙的恐怖とはやや趣を異にする。
とはいえ、「人類が触れてはならない古代の力」や「遺物の呪い」「禁忌を破った者の破滅」といった後年のテーマの萌芽が明確に示されている。
物語の狂気は、単に怪異によるものではなく、死と耽美に陶酔した人間が「人智を超えたものに触れてしまった」ことによる、理性の崩壊として描かれる。
セント・ジョンと語り手の関係は、互いに補完しあう破滅的な友情であり、それ自体が一種の背徳の象徴である。
「魔犬」における恐怖は、人間の精神内部に巣食う死と退廃への渇望が、自らを滅ぼす形で外在化したものであり、ラヴクラフトの美学と恐怖観の初期的表現を読み取ることができる。