『レッド・フックの恐怖(The Horror at Red Hook)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

H・P・ラヴクラフト作「レッド・フックの恐怖(The Horror at Red Hook)」は、1925年に執筆された短編であり、ニューヨーク市ブルックリン区レッド・フック地区を舞台に、移民の多い都市の闇に潜む異教の儀式と悪魔的存在を描いた作品である。
本作は都市の退廃、異文化への不信、そして見えざる恐怖の蔓延を背景に、人間理性の限界と魔の影の介在を描くものである。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集5』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

物語の主人公は、ニューヨーク市警の刑事トーマス・F・マローンである。
彼は法と秩序を重んじる誠実な警官であったが、ブルックリンのレッド・フック地区で起こる不可解な失踪事件と、異様な雰囲気に満ちた儀式的な犯罪の捜査を通じて、正気を失うほどの恐怖と直面する。
マローンの捜査対象は、ロバート・シュイナー博士という名の退廃的な学者である。
シュイナーは、世界中の秘教と悪魔崇拝に精通しており、地下で異教徒たちを束ね、古の存在を召喚しようと目論む人物である。
マローンは、地下深くの迷宮のような空間で行われる儀式の場に遭遇し、悪夢のような光景を垣間見たのちに意識を失い、入院する。
回復後のマローンは、シュイナーの変死とともに、レッド・フックの邪悪な気配が静まりつつあることを感じるが、自身が見た恐怖を完全に忘れることはできない。
登場人物
トーマス・F・マローン(Thomas F. Malone)
ニューヨーク市警の刑事で、本作の語り手でもある。
もとは法と秩序を信奉する理性的な男であったが、レッド・フックにおける一連の事件を通じて、超自然的恐怖と異界の存在の片鱗を目撃することになる。
最終的に正気を取り戻すが、深い精神的傷を負ったままである。
ロバート・シュイナー博士(Dr. Robert Suydam)
高齢の退廃的学者で、古代の宗教や儀式に傾倒している。
物語の中心的な黒幕であり、レッド・フックに集まる異教徒たちを指導し、悪魔的存在の降臨を目論む。
後半で突如若返ったかのような描写がなされるが、最後には奇怪な死を遂げる。
異教徒たち
中東系、バルカン系、アジア系など様々な出自をもつ移民たちであり、シュイナー博士に従って地下の礼拝堂で儀式を執り行う。
作中では名を持たないが、都市の暗部と超自然的恐怖の媒介として機能している。
地名・象徴・モチーフ
レッド・フック(Red Hook)
ニューヨーク市ブルックリン区に実在する港湾地域であり、当時は移民が密集する荒廃した地域として知られていた。
ラヴクラフトはこの地を、秩序ある文明の崩壊と混沌の象徴として描き、見えざる異教の儀式が密かに行われる迷宮のような舞台として用いた。
地下の儀式空間
シュイナー博士とその信奉者たちが出入りする建物の地下に広がる秘密の空間。
古代の神殿を模したかのような構造をもち、無数のトンネル、拷問器具、骸骨、そして異界の召喚に使われる秘術の道具が存在する。
この場所は、都市の下に潜むもう一つの現実=異界への通路である。
オカルトと古の神々
本作では「ニャルラトホテップ」などのクトゥルー神話的存在は明示されないが、古代バビロニア、カルデア、フェニキアといったオリエントの秘術が中心となる。
語られる呪文や儀式は、「理性の通じぬもの」として、読者に強い印象を与える。
考察
「レッド・フックの恐怖」は、ラヴクラフトの都市に対する嫌悪感、特に1920年代ニューヨークにおける急速な移民の増加と文化の多様化に対する不安が如実に反映された作品である。
今日の視点から見れば、排外的・差別的な要素が強く批判されうるが、物語そのものは「文明社会の下に潜む混沌と古代の悪」のテーマを堅持しており、クトゥルー神話世界の一断面として機能している。
シュイナー博士は、知識の追求が理性の崩壊をもたらす存在の典型であり、彼の周囲で起こる不可解な現象、若返り、死体の消失、召喚の儀式などは、現代科学では説明のつかぬ古代の力の再来を示唆している。
マローン刑事はその目撃者として、都市の地下に眠る「過去の闇」に触れ、その知識と体験を通して、理性の限界を痛感する。
最終的に、都市は再び表面的な平静を取り戻すが、語り手は「レッド・フックの恐怖」が永遠に沈黙したわけではないことを直感している。
本作は、都市の暗部に潜む邪悪と、その一瞬の顕現によって人間の精神がいかに脆弱かを描く、ラヴクラフト的恐怖の精髄である。