『未知なるカダスを夢に求めて(The Dream-Quest of Unknown Kadath)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『未知なるカダスを夢に求めて(The Dream-Quest of Unknown Kadath)』は、H・P・ラヴクラフトが1926年に執筆した長編幻想小説である。
ランドルフ・カーターを主人公とする「夢の国(Dreamlands)」サイクルの中心的作品であり、彼の作品中でも最も豊穣かつ壮大な幻想世界を描いた物語である。
本作は、単に夢幻世界の遍歴譚というだけでなく、自己探求、郷愁、神性と人間性の境界をテーマに内包し、ラヴクラフトの思想的・芸術的結晶とされている。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集6』に収録されている。
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

物語は、ランドルフ・カーターが夢の中で三度にわたり「壮麗きわだかな都」を目にしたことから始まる。
しかし、その都は神々によって彼の夢から排除されてしまい、以後現れなくなった。
なぜ神々はこの都を隠すのか、この謎を解くためカーターは夢の国を巡る旅に出る。
カーターは旅の途中で、猫の町ウルタール、セレファイスの海辺、月面都市や地下のサルコマンド、凍てつく荒野などを渡り歩き、多くの異形の存在、ズーグ族、ガグ族、食屍鬼、夢の神々と遭遇する。
さらには、外なる神ナイアーラトテップの策謀に巻き込まれながらも、最奥の地カダスへと至る。
彼がついに知る真実とは、神々が移り住んだ「壮麗な都」は、彼の幼年期に見たボストン郊外の風景そのものであり、彼自身の記憶と感性が作り出した理想郷であったということ。
つまりカダスの神々もまた、彼の夢想の一部であり、彼は知らぬ間に神々の本拠を「自らの幻想」に変えていたのだった。
この悟りを得た彼は、ナイアーラトテップの干渉を退け、再び現実の眠りから目覚めることで物語は幕を閉じる。
夢の中の旅は、実は自己回帰と想像力の力を認識する精神的巡礼であった。
登場人物
ランドルフ・カーター

物語の主人公にして語り手。
夢の国に通じる能力を持つ作家であり、未知なるカダスに住まう神々に夢の中で見た「壮麗きわだかな都」の正体と所在を問うために旅に出る。
彼の探求は幻想的世界の探検というより、幼年時代の記憶と美への回帰である。
夢想と郷愁を体現したラヴクラフトの分身的人物であり、本作で夢の探究の極致に至る。
ナイアーラトテップ(Nyarlathotep)

這い寄る混沌として知られる外なる神。
物語後半にてカーターを罠にかけ、自らの支配のもとに置こうとする。
人間の形をとることもでき、神々の代理人として夢の神々や外なる恐怖を背後から操る。
理性や秩序の破壊者として現れ、夢と現実の境界を崩す。
地球の神々(the gods of Earth)

地球の神々であり、夢の国の神殿や山々に住まう存在だったが、カーターが見た美しい都を気に入り、カダスを去ってそこへ移住してしまったとされる。
彼らは人間に似た弱さと好奇心をもち、神性よりも郷愁や享楽性で描かれる点が特徴である。
ズーグ族(Zoogs)

魔法の森に住む獣人種族。
人語を解し、地上と夢の国の情報を持つ。カーターが旅の初期に接触する存在であり、知識と情報の保管者として描かれる。
地名
未知なるカダス(Unknown Kadath)
本作の主目的地であり、夢の神々が住まうとされる謎の城が存在する場所。
位置は明かされておらず、「凍てつく荒野」の奥深くにある縞瑪瑙(しまめのう)の城として描かれる。
地球の神々がカーターの夢に現れた「壮麗きわだかな都」に魅了され、カダスから去った後は、ナイアーラトテップが支配している。
ウルタール(Ulthar)
夢の国に存在する町で、「猫を殺してはならない法律」があることで知られる。
カーターの旅の出発点でもあり、神々や他の存在にまつわる知識の入り口として登場する。
聖職者アタルがいる地としても重要である。
セレファイス(Celephaïs)
カーターの友人クラネスが統治する夢の国の都市。
理想郷のような美しさを持つが、カーターにとっては真の郷愁の対象ではなく、旅の過程でその限界にも直面する。
海沿いにあり、金色のガレー船が発着する。
サルコマンド(Sarkomand)
恐るべき夜鬼たちの出没する玄武岩の古代都市。
カーターと食屍鬼たちが協力して神々の居城を目指す際の一拠点。
荒廃と異形の象徴であり、かつての栄光が崩壊した廃墟である。
ダイラス=リーン(Dylath-Leen)
交易都市であり、夢の国の中でも規模が大きい。
商人やガレー船が集まり、黒い石の建築が特徴。
カーターはここで敵の罠にかけられ、神々の支配から逃れようとする。
地上的権力と陰謀の象徴でもある。
インクアノク(Inquanok)
薄明の地と称される極地近くの町。
縞瑪瑙の採石場があり、住民は半神的存在で、夢の神々の血を引くとされる。
カーターはこの地を通じて神々の痕跡と位置を推察する。
凍てつく荒野(the Cold Waste)
未知なるカダスが存在するとされる極寒の地域。探索者は神々により阻まれる場所であり、神秘と禁忌の象徴となっている。
多くの伝承や死者が関わる場所であり、ラヴクラフト神話における「到達不能性」のテーマを象徴する。
魔法の森(Enchanted Wood)
ズーグ族が住む森林。
現実世界と夢の国を結ぶ経路でもあり、カーターが旅の始まりに通過する地。森の中には〈深き眠りの門〉がある。
セラニアン(Serannian)
天空に浮かぶ雲の都。
神秘と純粋性の象徴であり、カーターの旅路では直接訪問されないが、夢の国の中でも最も神聖視される場所のひとつ。
解説
『未知なるカダスを夢に求めて』は、ラヴクラフトが築き上げた「夢の国サイクル」の集大成である。
単なる幻想小説ではなく、自己探求、記憶の再発見、想像力の力をめぐる哲学的寓話であり、主人公は外界ではなく「自分自身の心の内奥」に理想郷を見出す。
また、カーターが「神々の城」に至ることで得たものは、「世界の支配」ではなく、「すでに持っていた幸福の再認識」である。
これは『銀の鍵』や『セレファイス』と同様、ラヴクラフトが現実と幻想、時間と記憶の間に見出した美的真理を体現している。
さらに、ナイアーラトテップや旧支配者の存在が差し挟まれることで、本作は幻想と宇宙的恐怖の融合にも成功している。
夢の国は甘美で牧歌的なだけでなく、深淵と隣接した世界であることが強調され、ラヴクラフト的コズミック・ホラーの深化が図られている。
『未知なるカダスを夢に求めて』は、ラヴクラフトの夢と美の世界における最高峰であり、幻想文学と神話的宇宙観が交差する、詩的叙事詩のような大作である。