『末裔(The Descendant)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

ラヴクラフト全集 7 | H・P・ラヴクラフト, 大瀧 啓裕 | 英米の小説・文芸 | Kindleストア | Amazon
『末裔(The Descendant)』は、H・P・ラヴクラフトが1927年頃に執筆し、未完のまま遺された断章的短編である。
作中では、ロンドンを舞台に、ある男が語る古代の血脈に由来する呪われた記憶と、宇宙的存在への接触の痕跡が描かれており、ラヴクラフトの他作品、特に『チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件』や『無名都市』と地続きの思想が通底している。
未完ながら、ラヴクラフト宇宙の神話的構造を端的に表す重要作である。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集7』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

物語は、ロンドンのグレイズ・インという古い住宅街に住む、正体不明の白髪混じりの老人を描写するところから始まる。
この男は、明らかに普通ではない振る舞いを見せ、教会の鐘が鳴ると悲鳴を上げる、誰とも関わろうとせず、意味もなく幼稚な本に耽るなど、その精神状態に何らかの異常が見られる。
人々は彼を悪意なく狂人と呼び、彼自身も現実から目を逸らすように思考を拒絶し、想像力を封じ込める日々を送っていた。
この男の隣室に越してきた若き夢想家ウィリアムズは、老人の奇行と知識に惹かれ、交流を試みる。
そしてある日、ウィリアムズがアブドゥル・アルハザード著『ネクロノミコン』のドイツ語版を入手し、翻訳の助力を求めて老人の部屋を訪れると、老人はその書を目にした瞬間に卒倒する。
目を覚ました後、彼はウィリアムズに向けて、自らの過去と血統、そして人類の理性を超えた次元に通じる「門」について語り始める。
彼はかつてのノーサム卿にして第十九代の男爵であり、ヨークシャーの北海沿岸の城に住まう古い貴族の末裔であった。
その城はハドリアヌスの長城の石組に似た古代の構造で建てられ、地下にはブリトン以前の人種が残した禁忌の洞窟が存在したという。
そしてその地下で出会った「かつての存在」に触れたことで、彼は正気と安寧を失い、今やロンドンの一角で、狂気と恐怖に怯えて生きている。
登場人物
ノーサム卿(The Earl of Northam)
本作の中心人物であり、「末裔」である存在。
彼は自らの先祖が古代ローマ軍の軍人クナエウス・ガビーニウス・カピトーにまで遡ると語るが、実際にはそれ以前、海没した大陸から逃れた先史文明の末裔に連なる存在である。
彼の語る夢想と現実の狭間の描写は、『夢の国サイクル』とも深く通じる。
ウィリアムズ(Williams)
23歳の若き夢想家で、奇書『ネクロノミコン』に惹かれたことでノーサム卿と出会う。
語り手としては未発達だが、ラヴクラフト作品における「探求者」の典型であり、ナレーションを導く触媒として機能する。
クナエウス・ガビーニウス・カピトー(Cnæus Gabinius Capito)
ノーサム家の先祖とされるローマの執政官。
彼はロンドン北部の洞窟で不明な儀式に遭遇し、軍を追放される。
この設定は、ラヴクラフトが好んだ「古代人と旧支配者の邂逅」を象徴している。
地名
グレイズ・イン(Gray’s Inn)
ロンドン市内に実在する法曹院。
物語では静かで古めかしい住宅地として描かれ、ノーサム卿の避難先となっている。
ここでは「文明の中の異物」「時代から逃れた者の隠れ家」として機能する。
ノーサム城(Northam Castle)
北海を見下ろす崖の上に建つ、古代の石組に基づく砦。
ブリトン以前の種族が残した神殿や印章が地下に眠っており、ローマ時代以前から続く古代の力を封じた場所でもある。
禁断の洞窟と古代の種族
地名は特定されていないが、「西方の大陸が沈んだのちに生き残った民」が語られている点から、アトランティス、レムリア、あるいはクトゥルフ神話におけるル=リイ以前の先史文明との接続が想定される。
解説
『末裔』の主題は、祖先の記憶、宇宙的真実の継承、そして「門」の存在である。
物語において、ノーサム卿は「思い出してしまった」人物であり、その記憶は彼を日常生活から引き離し、人智を超えた宇宙的存在への感受性を高めてしまった。
これは、他のラヴクラフト作品における「知りすぎた者の破滅」と同様である。
また、アトランティスやブリトン以前の民といった要素により、本作は幻想文学と神話創作の境界にある。
『無名都市』や『狂気の山脈にて』における「古代種族の知識と遺産」とも通じ、人間の歴史の外に存在する知識体系とその影響を描く。
『末裔』は未完であるがゆえに、読者の想像を大きく刺激する構造を持つ。
クトゥルフ神話のコアに位置する「門」「血統」「記憶」「古代の地下空間」というラヴクラフト的恐怖の核心が凝縮された、重要かつ象徴的な断章である。