『本(The Book)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説


ラヴクラフト全集 7 | H・P・ラヴクラフト, 大瀧 啓裕 | 英米の小説・文芸 | Kindleストア | Amazon

『本(The Book)』は、H・P・ラヴクラフトによって執筆された短い断章であり、未完のまま残された作品である。

物語としての構造は不完全であるが、ラヴクラフトが好んだテーマ、すなわち禁断の書物、召喚儀式、異界への転移、そして人間の変容が凝縮された内容を含み、のちにアウグスト・ダーレスによってクトゥルフ神話の体系に組み込まれていく基礎的素材となった。

創元推理文庫の『ラヴクラフト全集7』に収録されている。

注意

読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。

書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。

物語の概要

『本(The Book)』
『本(The Book)』

物語は、語り手がとある古書を入手したことから始まる。

この「本」は、いかにもラヴクラフト的な禁断の書物であり、その由来も目的も不明ながら、読む者に異常な幻視や超自然的体験を引き起こす。

語り手はその書物に魅入られ、やがて周囲の現実世界との接点が次第に曖昧になってゆく。

彼は深夜に灯火を灯しながらこの本を読み進め、そこで語られる異様な図像、地名、魔術的言語、儀式の記述に没入する。

やがて、彼は「本」の中で言及されている異界的な場所や存在を夢ではなく現実として知覚するようになる。

そしてついには、自身の身体にすら異変が生じ、人間としての自己と異界の何かとの境界が崩れていく。

作品はそこで突如として終わる。

語り手の変貌やその後の運命については語られず、読者はこの「本」が何であったのか、語り手が何に到達したのかを想像するほかない。

登場人物

語り手(Unnamed Narrator)

物語の中心人物であり、ある種の「探求者」。禁断の書に出会い、読むことで次第に異界に接触し、正気と人間性を失っていく存在。

ラヴクラフト作品にしばしば登場する「知識ゆえに堕ちる者」の典型例である。

本(The Book)

実体を持ちつつも、その内容は夢幻的・儀式的・象徴的であり、現実を侵蝕していく。

「ネクロノミコン」や「ウナル=カイの秘録」などと並ぶ、ラヴクラフト的禁書の系譜に連なる想像上の魔導書であると考えられる。

地名や設定

書物の描く異界(Unnamed Realm)

作中において明示的な地名は登場しないが、本に記された世界は、地球の現実とは異なる次元――時空と因果律を逸脱した「外側の宇宙」を思わせる。

語り手はこの世界に文字通り「引き込まれていく」。

現実の部屋と灯火

物語冒頭の舞台である語り手の部屋は、知識を得ようとする行為の象徴であるが、やがてそこは異界と接続される儀式空間と化す。

灯火の描写はしばしば、知識と狂気の境界を表す比喩として機能する。

解説

『本』はわずか数ページの断章ながら、ラヴクラフト文学における重要な要素を象徴的に提示している。

すなわち、禁断の知識への渇望と、それに対する代償としての狂気と変容である。

この短編では、語り手がどのような存在へと変わるのかが明かされないが、その不明性こそが、ラヴクラフト的恐怖の根源である「名状しがたきもの」の感覚を強調している。

また、「本」という題名そのものが象徴的であり、書物を通じた知識の獲得が、現実の枠組みを超えた力を呼び込む契機であるという、ラヴクラフト的モチーフが凝縮されている。

『ネクロノミコン』に代表される架空の禁書群の中に位置づけられうる存在であり、この『本』が書物なのか、書そのものが魔術的存在であるのか、そのあいまいさもまた、恐怖と魅惑を生んでいる。

のちにアウグスト・ダーレスはこの断章を基に、独自に物語を補完したが、ラヴクラフト自身は結末を与えぬまま、あえて読者の想像力に委ねた。

このことにより、『本』はクトゥルフ神話の周縁にあって、最も純粋な「接触する恐怖」=未知との交信を描いたテキストと評価されている。

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