『錬金術師(The Alchemist)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『錬金術師(The Alchemist)』は、H・P・ラヴクラフトが1908年、17歳の時に執筆した初期の短編小説であり、呪い・血統・復讐・不老のテーマを中世風ゴシック様式で描いた作品である。
若年期における完成された形式美を備えた本作は、ラヴクラフトの後の怪奇幻想文学への志向を明確に示すものであり、ポー的な文体と構成が色濃く現れている。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集7』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

物語の語り手は、ド・カーズ家(de C)の最後の子孫であるアントワーヌ(Antoine)である。
彼は老朽化した城館に独り暮らし、家系の悲劇的な歴史を回想する。
ド・カーズ家の男たちは皆、32歳の誕生日を迎える前に、必ず非業の死を遂げるという呪いに取り憑かれていた。
この呪いは、600年前にまで遡る。
先祖であるミシェル・ド・カーズ(Michel de C)が、異端の錬金術師シャルル・ル・ソルシエ(Charles le Sorcier)を告発・殺害したことに端を発する。
ソルシエは死に際に「貴様の血を引く者は、代々32歳で死ぬだろう」と呪詛を残した。
以後、代々の男子は皆、不可解な死を遂げ、家系は断絶寸前にまで追い詰められていた。
アントワーヌもまた、その32歳の誕生日を目前に控えていた。
彼は家の図書室と地下にある忘れ去られた通路を調べるうちに、地下の奥に秘密の部屋とそこに潜む人影を発見する。
その男は、なんとかつて死んだはずの錬金術師シャルル・ル・ソルシエ本人であり、不老の秘法を用いて生き延び、代々のド・カーズ家の者を暗殺してきた張本人であった。
ソルシエはアントワーヌの命も奪おうとするが、逆にアントワーヌに反撃され、遂に殺される。
こうして600年に及んだ呪いは終焉を迎え、アントワーヌは解放されることとなる。
登場人物
アントワーヌ・ド・カーズ(Antoine de C)
語り手であり、ド・カーズ家の最後の生き残り。古典的教養を備えた寡黙な男で、運命に抗おうとする意志を持ち、最後には呪いを断ち切る。
シャルル・ル・ソルシエ(Charles le Sorcier)
中世の錬金術師であり、同時に黒魔術師。不老不死の秘術を用いて600年にわたり生き続け、ド・カーズ家への復讐を果たしていた。
典型的な悪の象徴であり、ポー的悪漢の典型である。
ミシェル・ド・カーズ(Michel de C)
アントワーヌの遠祖。
錬金術師を糾弾し、ソルシエの死を招いた人物。以後、家系は呪いに苦しむこととなる。
地名
ド・カーズ城(Castle de C)
物語の舞台となる古城。
長年の呪いと死の記憶が染みついた場所であり、時間の堆積と没落を象徴する。
朽ちた壁や封印された通路、暗い塔など、ゴシック文学の典型的構造物が用いられている。
地下回廊と秘室
古き罪と忘却の象徴。過去に封じられた存在がなおも生き延びている空間であり、「死んだはずの過去」が再び現れる場である。
解説
『錬金術師』は、先祖の罪とその報い、血統と呪いの連鎖、不死の代償といったゴシック文学の主要主題を典型的に描いた作品である。
ラヴクラフトの後年の作品に見られるような宇宙的恐怖は未だ顕在化していないが、時間の超越、不老の恐怖、因果の鎖といった要素は、のちの『チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件』に通じる。
特に注目すべきは、「呪い」は実際には超自然的現象ではなく、人間の意志と知識によって成された連続的な殺人行為であったという点である。
これは、ラヴクラフトが恐怖の根源を「非理性的な奇跡」ではなく、異常な理性の延長線上にあるものとして捉えていたことの現れでもある。
また、本作の構造は極めて整っており、プロローグ→回想→探索→発見→対決→解放という古典的な劇構成を踏襲している。
その文体はポーの影響を濃厚に受けており、ラテン語や中世風語彙の挿入によって、歴史と神秘が交錯する雰囲気を高めている。
総じて、『錬金術師』はラヴクラフトの初期の代表作であり、彼の後の創作に繋がる諸要素である古代の知識、過去との交信、不死と報復、城館の記憶をすでに備えている点で、若き才能の原型を示す重要作である。