『死体安置所にて(In the Vault)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『死体安置所にて(In the Vault)』は、寒村を舞台としたホラー短編。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語概要

『死体安置所にて』は、アメリカの寒村ペック・ヴァレーを舞台としたホラー短編であり、無頓着で酒癖の悪い葬儀屋ジョージ・バーチが、自らの不注意から死体安置所に閉じ込められ、そこで恐るべき体験をするという物語である。
物語の発端は、冬の厳しい寒さのために墓穴を掘れず、九体の遺体が古い横穴式の死体安置所に一時保管されていた状況にある。
春の訪れと共に埋葬が始まり、バーチはまず高齢のダリウス・ペックを埋葬し、次にマシュー・フェナーの遺体を移すつもりであった。
四月十五日の午後、フェナーの棺を取りに行ったバーチは、死体安置所の内部で突風によってドアが閉まり、錆びた掛け金の不具合により内側から出られなくなる。
暗がりの中、彼は棺を足場にして換気孔上部の明りとり窓からの脱出を試みるが、その最中に何者かに足を掴まれ、狂乱状態に陥る。
後日、彼はアキレス腱を切断した重傷を負いながらも脱出に成功する。
しかしその際の体験が心身に深い傷を残し、彼は正気を失い、商売を畳んで酒に溺れるようになった。
物語は、後年その体験を彼から聞かされた医者の語りによって構成されており、ラストではその医者が現場を調査し、「棺の中身」にまつわる驚くべき事実を確認する描写で締めくくられる。
登場人物
ジョージ・バーチ
本作の主人公であり、ペック・ヴァレー村の葬儀屋。仕事には無頓着で酒癖が悪く、倫理観も薄いが、決して悪人ではない。死体安置所に閉じ込められた恐怖によって一生を狂わされた。
ディヴィス先生
バーチの友人であり、かつてのかかりつけ医。物語の語り手でもある。後年、死体安置所の調査を行い、真相に触れる。
アサフ・ソーヤー
すでに死亡していた人物で、忌まわしい性格と復讐心で知られていた。物語において、彼の存在が恐怖の源の一つとされている。
マシュー・フェナー
高齢で小柄な遺体として登場。フェナーのための棺が物語の鍵となる。
地名・重要要素
ペック・ヴァレー(Peck Valley)
物語の舞台である寒村。小さく人口も少ないが、古びた死体安置所が存在する。
死体安置所(Mortuary Vault)
丘の側面に造られた石造の横穴式施設。換気孔と明りとり窓があるが、暗くて湿気がこもり、内部は非常に不気味である。
明りとり窓
唯一の脱出経路。バーチは棺を積み重ねてそこから脱出しようと試みるが、最上段の棺が崩壊し、恐怖の頂点に達する。
考察
本作は、ラヴクラフトにしては珍しく、田舎の現実的な恐怖と怪異をテーマに据えている。
クトゥルフ神話のような宇宙的恐怖ではなく、「死者との境界が曖昧になった瞬間の心理的恐怖」「死体への無遠慮な扱いに対する報復」といった因果応報の構図が中心である。
また、バーチという人物を通じて、不注意・傲慢・職業倫理の欠如がいかにして取り返しのつかない恐怖を招くかが描かれている。
物語終盤の「アサフ・ソーヤーの棺」が示す真実は、死の境界が曖昧であるという恐怖を象徴するものであり、読者の想像力を刺激する終わり方となっている。
『死体安置所にて』は、ラヴクラフト作品の中でも現実感と皮肉の効いた恐怖が強く、死体・棺・閉鎖空間という定番の素材を用いながらも、読後に不穏な余韻を残す短編である。