『あの男(He)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『あの男(He)』は、H・P・ラヴクラフトが1925年に執筆した短編小説であり、時間と空間を超えた恐怖、過去の罪、都市に秘められた暗黒の歴史を描く作品である。
本作はラヴクラフトがニューヨーク市に滞在していた時期に書かれており、彼のニューヨークへの嫌悪と孤独感が色濃く反映されている。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集7』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

物語は、語り手である無名の男(主人公)が、自らの不安と逃避のためにニューヨークに移り住んだことから始まる。
彼は田舎の静けさに慣れていたが、ニューヨークの喧騒と人混みに馴染めず、次第に精神をすり減らしていく。
ある夜、彼は都会の騒音を避けて、グリニッジ・ヴィレッジの古い街並みを歩き続けるうちに、見知らぬ奇妙な紳士に出会う。
中世風の衣服をまとったこの男は、自分がこの地区の歴史に詳しいと語り、語り手を案内する。
彼は、かつてこの土地にあった過去のニューヨーク、まだ原生林に囲まれた時代の姿、そして失われた建築や文化を幻視させるように語りかける。
やがて彼らは、とある高台にある邸宅へと辿り着き、男は語り手に「時を越える秘密」を見せるという。
そして男が唱える呪文とともに、語り手は時空の裂け目を通して、過去のニューヨークの幻視を体験することになる。
彼は、開拓時代の村落、異教的儀式、不気味な建物、そして異様な人物たちを目撃する。
だがその幻視の中で、語り手は奇妙な違和感に襲われる。案内人であった男の姿が、過去の住民によって追われ、呪詛されている存在であることが明らかになる。
男は、かつて闇の術によって時を支配しようとしたが、その報いとして「過去から追われる者」となっていたのである。
追手たちの怒号とともに、幻視は崩壊し、語り手は元の時間へと投げ戻される。
気がつくと、彼は朝焼けのグリニッジ・ヴィレッジに一人で立ち尽くしており、「あの男」は消えていた。
そして語り手は、都市の中に潜む恐怖と、見てはならない過去への畏怖を抱いて、街を去る。
登場人物
語り手(主人公)
田舎出身で都会に馴染めず、精神の平衡を失いかけている青年。
夢想家であり、歴史や過去に強い憧憬を抱いているが、それが災厄を招く。
あの男(The Man)
中世的な衣装をまとった、過去と未来を知ると称する謎の紳士。
実は呪われた存在であり、時空を操る禁忌の術を用いた過去の報いとして、永遠に「追われる者」となっている。
幻視の中の追手たち
過去のニューヨークの住民たち。
異端者である「あの男」に対し怒りと恐怖を抱き、彼を罰しようと追い詰める。
彼らは過去の正義・因果の化身とも言える存在である。
地名
グリニッジ・ヴィレッジ(Greenwich Village)
ニューヨーク市の一角であり、ラヴクラフトが実際に居住していた地域。
古い建築と新しい混沌が混在するこの土地は、過去と現在が重なり合う舞台として描かれる。
高台の屋敷
時間を越える儀式の場であり、都市の最古の秘密が眠る場所。
ラヴクラフトにとっての「都市に潜む神秘」の象徴。
解説
『あの男』は、ラヴクラフトの作品群の中でもとりわけ都市的恐怖を扱ったものであり、彼自身のニューヨーク嫌悪が強く投影されている。
喧騒と猥雑さに満ちた都市は、人間性の崩壊と理性の喪失を象徴しており、主人公はその中で自己の輪郭を失いかけている。
また、本作はラヴクラフト作品における重要なテーマである「知ってはならない過去への接近」を描いており、幻視体験によって現代人の知覚が押し潰されるという構造をとっている。
「あの男」はその媒介であり、禁忌への案内者であると同時に、その因果の罰を体現する存在である。
さらに注目すべきは、「時間の超越」が悲劇として描かれる点である。
バルザイ賢者やランドルフ・カーターのように、ラヴクラフトの他作品では夢や魔術によって別世界へ行く者が多いが、本作ではそれが都市の暗黒史に触れることによる災厄として機能している。
『あの男』は、都市に潜む目に見えない罪と記憶、そしてそれに触れた人間の破滅を描いた、静かなる恐怖の物語である。