『セレファイス(Celephaïs)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『セレファイス(Celephaïs)』は、H・P・ラヴクラフトが1920年に執筆した夢幻的短編であり、現実世界の絶望から逃れ、夢の世界に自らの理想郷を築いた男の物語である。
本作は「夢の国(Dreamlands)」を舞台とする作品群に属し、自己喪失と美への逃避をテーマとして扱っている。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集6』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

主人公はクラネス(Kuranes)という名で夢の中に生きる男である。
本名は語られないが、彼は現実世界ではロンドンに住む孤独な中年男性であり、かつては由緒ある家系の出身であった。
人生における喪失と幻滅の果てに、クラネスは夢の世界に救いを求めるようになり、やがて夢の中で彼の魂はかつて幼年時代に一度訪れた理想の都セレファイスを見出す。
セレファイスはオオス=ナルガイ(Ooth-Nargai)の谷に位置し、アラン山(Mount Aran)の麓、ナラクサ川(Nargis River)のほとりに広がる幻想都市である。
この都は、時間の概念が存在せず、すべてが永遠の若さと美しさを保っている。
クラネスはここで、自らの望みをすべて叶えることができる。
夢の中のクラネスは、記憶にある通りの村や橋、神殿を見いだし、誰もが彼の帰還を自然に受け入れる。
彼はついに港町の王となり、海の彼方へ出帆する金色のガレー船を支配し、さまざまな異国を巡る貿易と探検を行う。
しかし、夢と現実の間には分離があり、現実のクラネスの身体は次第に衰え、死が近づく。
現実では彼はロンドンの街角で「行方不明者」として処理され、海辺で死体が発見される。
だが、夢の世界ではクラネスは永遠にセレファイスの王として生き続ける。
登場人物
クラネス(Kuranes)
現実世界では失意の中年男性だが、夢の世界では理想郷セレファイスの創造者にして王。
彼の物語は、夢によってのみ完全な自由と美を得られるというラヴクラフトの思想の体現である。
地名
セレファイス(Celephaïs)
オオス=ナルガイの谷にある都市。
美と静けさ、永遠の若さを保ち、ラヴクラフト作品中でもっとも理想化された都市の一つである。
オオス=ナルガイ(Ooth-Nargai)
セレファイスが存在する幻想世界の谷。
豊かな自然と神殿、夢のような構造が満ちる。
ナラクサ川(Nargis River)
セレファイスの中を流れる川。
クラネスの記憶に基づいており、彼の故郷の川を模していると考えられる。
アラン山(Mount Aran)
セレファイスの背後にそびえる山。神秘と静寂を象徴する存在。
解説
『セレファイス』は、現実逃避と夢想の正当化というラヴクラフトの一貫した思想を象徴する作品である。
現実のクラネスは社会において孤立し、財産と家族を失い、無力な一人の人間であった。
だが、夢の中では王となり、美の都を支配し、永遠に若く、栄光に包まれる。
本作は「夢の国」シリーズに属するが、その中でも特に詩的で内面的な作品であり、主人公が死をもって現実から夢の世界に完全に移行する過程を描いている。
セレファイスは彼の魂が創り出した理想郷であり、そこでは時間も衰えも存在せず、彼の記憶と想像だけがすべてを構成している。
一方で、クラネスの夢は必ずしも幸福に満ちた逃避ではない。
彼が夢にすがるのは、現実の虚無があまりに重苦しいからであり、本作には現実の冷たさと夢の甘美さの対比が陰影豊かに描かれている。
現実では無名の行き倒れとなったクラネスが、夢では王として永遠を生きるという結末は、哀しさと救済が同居する象徴的なラストである。
ラヴクラフト自身もまた、現実の不条理と不満に悩まされ、創作に理想と自由を託していた。
『セレファイス』は彼の内面をもっとも静かに、しかし強く映し出した作品である。