『アザトホース(Azathoth)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

ラヴクラフト全集 7 | H・P・ラヴクラフト, 大瀧 啓裕 | 英米の小説・文芸 | Kindleストア | Amazon
『アザトホース(Azathoth)』は、H・P・ラヴクラフトが1922年頃に執筆した短い断章であり、完全な物語ではなく未完の夢想的導入部である。
それにもかかわらず、本作はのちにクトゥルフ神話において中核的存在となる神格「アザトース(Azathoth)」の名が初めて明示された記念碑的テキストであり、ラヴクラフトの夢幻的・宇宙的恐怖観の原点とも言える。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集7』に収録されている。
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

『アザトホース』において語られるのは、日常の世界に倦み、夢と幻視を求める一人の男の心象風景である。
彼は日々の生活に耐えがたい幻滅を抱いており、書物の中に「理想の世界」を探し求める。
夜ごと夢の中に逃れようとする彼の意識は、やがて未知の次元へと踏み込んでゆく。
「アザトホース」という名は、まさにこの夢幻の旅路の先にある目的地、あるいは到達不可能な核のように示唆される。
男はすべてを投げ打って、夜と夢の呼ぶままに現実を脱し、名も知らぬ旅へと出る。
風景は時間を超え、建築は現実を超越し、彼は高く高く昇っていく。そして、物語は「そこにはアザトホースが在る」と呟かれるようにして、唐突に終わる。
登場人物
無名の男(Narrator)
物語の主人公であり、語り手。
現実に絶望し、幻想の国へ逃れることを選ぶ。
彼の旅は比喩的であり、外的旅というより内面の宇宙への没入である。
個人の夢と宇宙的存在の邂逅がテーマとなっている。
地名や要素
幻想の都市/夢の国
作中では明確な地名は与えられていないが、文体や描写から『夢の国サイクル』に連なる世界であると推察される。巨大な宮殿、光に包まれた空間、時を越える旅が描かれる。
アザトホース(Azathoth)
中心に座す存在。
明示的な描写はないが、宇宙の核であり、無意味な混沌そのものというラヴクラフトの後期解釈がここに端を発する。
「盲目で痴鈍なる神」「無調の笛に囲まれて蠢く宇宙の中心に在る」存在としての描写は、本作以降に発展していく。
解説
『アザトホース』は、物語というよりも詩的断章、夢想の破片である。
それは、ラヴクラフトがしばしば着手した「長編幻想小説」の冒頭草稿であり、本来ならば『夢書簡』のような構想へと拡張される予定であったと考えられている。
主題は明確に、現実世界における理性と意味の放棄、夢の中での崇高なる混沌との接触である。
この旅は神秘の探索であると同時に、意味という枠組みから解放されるための精神的降下=上昇の道でもある。
アザトースという存在は、「神格」としての人格を持つものではなく、無意味そのもの、すなわち人間の理性が拒絶する宇宙的真理を象徴する。
ラヴクラフトが後に確立するコズミック・ホラーの中でも、アザトースはその最も純粋な形を体現している。
クトゥルフやヨグ=ソトースが「知覚可能な神性」であるのに対し、アザトースは宇宙的無知と混沌の中心であり、理性なき創造力、音楽的狂気、知性の限界の外側を象徴している。
『アザトホース』という作品は短く未完でありながら、ラヴクラフト宇宙の核心的恐怖を最も凝縮した形で予告した予兆であり、彼の世界観の「震源地」に位置する存在と言ってよい。