『インスマウスの影(The Shadow over Innsmouth)』の語り手(主人公)についての解説

『インスマウスの影』における主人公(語り手)は、名前が明かされていない一人称の語り手であるが、その人物像は物語の進行と共に徐々に浮かび上がってくる。
以下に、彼の人物像・性格・役割・運命を詳細に解説する。
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
基本的な情報
主人公は1927年、夏の学術旅行の途中にニューイングランドを訪れていた若き男性である。
具体的な年齢は示されないが、大学生あるいは若い知識人と解釈される。
彼はアーカムやミスカトニック大学などの知的環境と縁があり、古建築、地方史、家系研究などに強い関心を持つ理知的な人物である。
彼の旅の目的は、マサチューセッツ州の風土と遺産を調査し、大学の研究発表に役立てることであった。
性格と価値観
知的好奇心に富み、地方の伝承や歴史に対して批判的かつ探究的な態度を持っている。
彼は噂や迷信を頭から信じることはなく、事象を「理解できるもの」として接しようとする。
インスマウスの風聞を耳にしても恐れず、むしろ好奇心を抑えきれず町を訪れる。
町の建物や住人の風貌、方言、社会構造などを詳細に記録・描写しており、ジャーナリスティックな目線と冷静な筆致を持つ。
序盤では外部から観察する立場だったが、物語の後半になると「自分の出自にまつわる不吉な兆し」に気づき始め、アイデンティティが崩壊していく。
物語における役割
彼は物語の「受信者」であり、「探究者」であると同時に、最終的には「継承者」となる。
インスマウスで得た情報をもとに連邦政府への通報者となり、異常な町の一掃(潜水艦による破壊作戦)を引き起こすきっかけを作る。
しかし、真に恐ろしいのはその後である。
彼は、出生の秘密を調べるうちに、自身が深きものどもとの混血児であることを悟る。
夢の中で彼は「深きものの都市」や自身の母、祖母の姿を幻視し、やがて自分も変異の過程にあることを受け入れるようになる。
終盤と結末
物語終盤では、彼は変化を恐怖や逃避ではなく、歓喜と神秘の帰属感として受け入れていく。
「私も、あの都市へ行く……母と祖母がいるあの場所へ……」
H.P.ラヴクラフト著「インスマウスの影」より
このセリフは、人間性の喪失ではなく、新たなアイデンティティへの再構築を示唆しており、ラヴクラフト的な恐怖が単なる絶望でなく、「人間ではない世界への帰還」として描かれている点が重要である。
象徴的な意味
主人公は単なる語り手ではなく、読者の「代理人」として物語世界を踏破しつつ、最終的にはその世界に「取り込まれていく」人物である。
彼の旅は、外部の常識世界から禁断の真実への下降であり、クトゥルフ神話における定番の「探求→発見→発狂/受容」の構造を体現している。
また、「人間の血統」「自己の起源への問い」「知ることの代償」というテーマを、極めて個人的な形で引き受ける存在でもある。