『クトゥルフの呼び声(The Call of Cthulhu)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『クトゥルフの呼び声(The Call of Cthulhu)』は、アメリカの怪奇作家H・P・ラヴクラフトによる小説である。
クトゥルフ神話の代表的作品であり、創元推理文庫の『ラヴクラフト全集2』に収録されている。
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

本作『クトゥルフの呼び声』は、1926年に始まった一連の不可解な出来事と、それに関与した人物たちの調査を通して、太古の存在「クトゥルフ」とその信奉者たちの実在が徐々に明らかになる恐怖譚である。
語り手は主人公フランシス・ウェイランド・サーストンであり、彼は大叔父であるブラウン大学の名誉教授ジョージ・ガムメル・エンジェルの遺品を整理する過程で、「クトゥルフ神話」の真実に触れてゆく。
物語は三部構成であり、それぞれ別個の出来事として描かれるが、最終的にひとつの恐るべき真実へと収束する。
第一部は彫刻学生ウィルコックスの奇怪な夢と創作物、第二部は警部ルグラースによる過去の捜査報告、第三部は航海士ヨハンセンの記録によって構成されている。
主な登場人物
フランシス・ウェイランド・サーストン(Francis Wayland Thurston)
本作の語り手にして事実上の主人公である。
職業は記されていないが、インテリ層に属する人物で、ブラウン大学の名誉教授ジョージ・ガムメル・エンジェルの甥にあたる。
大叔父の死後、彼の遺品を整理する過程で、「クトゥルフ神話」の断片的情報を発見する。
ウィルコックスの粘土細工、ルグラース警部の報告、ヨハンセンの航海日誌などを繋ぎ合わせ、ついには「クトゥルフの呼び声」の正体に迫る。
作品中では、理性的で懐疑的な姿勢を保ちながらも、徐々に宇宙的恐怖に圧倒されてゆく人物である。
ジョージ・ガムメル・エンジェル教授(George Gammell Angell)
プロヴィデンスのブラウン大学に籍を置く老学者で、セム語の権威である。
生前、奇怪な粘土板や異様な神話伝承に興味を示していた。
突如として謎の死を遂げるが、サーストンはその死因にクトゥルフ教団の影を感じ取り、調査を開始する。
彼の遺した書類と手記が物語の出発点となり、作品中では知的探究の殉教者として機能する。
ヘンリー・アンソニー・ウィルコックス(Henry Anthony Wilcox)
若き芸術家で、ラヴクラフトの作品に多い「感受性の鋭い人物」として描かれる。
奇怪な夢に悩まされるようになり、それを形にした粘土板をエンジェル教授に見せる。
夢に現れる都市や呪文は、明らかにクトゥルフにまつわるものである。
彼は一時期高熱と錯乱状態に陥るが、快癒後は以前よりも沈着で世俗的になり、まるで何かを失ったかのようである。
夢と現実の交錯点を象徴する人物である。
ジョン・レイモンド・ルグラース警部(Inspector John Raymond Legrasse)
ニューオーリンズ警察の警部で、1908年に起こったルイジアナ州の沼地での奇怪な宗教集会を摘発した中心人物である。
彼は儀式に使われていた石像(クトゥルフ像)と信徒の供述に興味を持ち、学会で報告を行う。
彼の証言はサーストンがクトゥルフの存在を確信する大きな手がかりとなる。
地元警察という立場ながら、神話世界に最も深く踏み込んだ現実世界の探索者の一人である。
グスタフ・ヨハンセン(Gustaf Johansen)
ノルウェー人の航海士で、貨物船エマ号の唯一の生存者である。
彼は海上で謎の船舶アラート号と遭遇し、交戦の末、謎の孤島(ルルイエ)にたどり着く。
そこで彼はクトゥルフの覚醒と、それが再び封じられる瞬間を目撃する。帰国後に記した日誌が、彼の死後に発見され、サーストンによって読まれる。
最も直接的にクトゥルフと接触した人物でありながら、語り部ではないため、黙して語らぬ目撃者としての重みを持つ。
エマ号の乗組員およびアラート号の乗組員
両者とも詳細な描写は少ないが、神話の現実的な犠牲者として登場する。
特にアラート号の乗組員は、クトゥルフ教団の信徒であり、彼らの船は無抵抗なエマ号を襲撃する。
彼らの行動は、クトゥルフを信仰し、復活を目論む人々が世界中に存在することを象徴している。
重要地名・設定
プロヴィデンス(Providence)
本作の物語構造の基盤となる都市であり、語り手フランシス・サーストンおよび故ジョージ・ガムメル・エンジェル教授の居住地である。
ブラウン大学を中心とした知的環境が舞台となっており、サーストンはここで教授の遺品(奇怪な粘土板、夢の記録、新聞の切り抜き、証言記録など)を発見する。
物語の調査の出発点であると同時に、ラヴクラフト自身の故郷であり、彼の作品群においても信頼できる理性の象徴地としてしばしば登場する。
ルイジアナ州の沼地(Swamps of Louisiana)
1908年、ニューオーリンズの警部ジョン・レイモンド・ルグラースが宗教的集会を摘発した現場である。
黒人や混血の農民たちが原始的な太鼓を打ち鳴らし、異教の神クトゥルフを讃える儀式を行っていた。
中心には奇怪な石像が据えられており、参加者たちは「偉大なるクトゥルフは夢見ながら眠っている」と唱えていた。
文明から隔絶されたこの沼地は、クトゥルフ神話における地上に残された邪教の聖地の一つであり、都市と未開、理性と狂気の境界として象徴的に機能する。
パシフィック・オーシャンの無名の孤島(Pacific Ocean Islet / R’lyeh)
航海士グスタフ・ヨハンセンが遭難の末にたどり着いた、太平洋の深海に浮上した異常地形の島。
ここに現れるのが、クトゥルフの眠る沈没都市ルルイエ(R’lyeh)である。
ラヴクラフトはこの都市を「非ユークリッド的な幾何学(下で詳説する)に支配された建築物」として描写し、現実世界の空間概念とは全く異なる世界が広がっていることを暗示する。
都市には巨大な石門が存在し、そこからクトゥルフが一時的に出現したことがヨハンセンの手記によって判明する。
なお、ルルイエは作中においてS 47°9′, W 126°43′(南緯47度9分、西経126度43分)に位置すると記されており、これは南太平洋の何もない海域に該当する。
都市は通常は海底に沈んでおり、「星辰が正しき時」にのみ浮上する。
補足:非ユークリッド的な幾何学に支配された建築物
沈没都市ルルイエの「非ユークリッド的な幾何学に支配された建築物」とは、私たちが日常で見慣れている普通の空間や形の法則(ユークリッド幾何学)が通用しない、異常で直感に反する構造を持つ建物を意味する。
これは、平面や立体の中で「直線はまっすぐ」「三角形の内角の和は180度」「平行線は交わらない」など、普通の空間における常識的な幾何学である。
私たちの家、学校、街はこの原則に従って設計されている。
それに対して非ユークリッド幾何学では、以下のような状態や現象が挙げられる。
- まっすぐ歩いていたのに元の場所に戻ってくる
- 角度が90度に見えるのに、実際には曲がっていない
- 外から見た建物より中が広い
- 上に登っているはずが、気づけば地下にいる
- 床と壁がどこまで続いているのか分からない
つまり、空間そのものが歪んでいる感覚を与える。
このような構造は、単なる建築の奇抜さではなく、「宇宙そのもののルールが違う場所」を意味しており、クトゥルフ神話においてはその空間に足を踏み入れること自体が狂気への第一歩である。
ノルウェー(Norway)
航海士ヨハンセンの出身地であり、彼がアラート号との戦闘を経て生還した後に身を寄せた場所である。
彼は事件後、この地で体調を崩し、ほどなくして死去するが、死の直前に「日記」という形で真相を残す。
このノルウェーは、クトゥルフと直接接触した生存者が最後にたどり着いた現実世界の安息地として描かれている。
グリーンランド(Greenland)
ルグラース警部が参加した考古学者の学会で、グリーンランドのエスキモーから得られた呪文と儀式が、ルイジアナの信徒たちと類似していることが語られる。
これはクトゥルフ教団の存在が単一民族や文化圏に限らない、世界的規模の地下信仰であることを示している。
グリーンランドは北極圏の僻地でありながら、クトゥルフ神話の触手がそこにまで及んでいることを象徴する。
クトゥルフと神話体系
クトゥルフ(Cthulhu)
本作に登場する「偉大なる古きもの(Great Old Ones)」の一柱。
巨大で章魚に似た頭部、蝙蝠のような翼、鱗に覆われた身体を持つ。
現在はルルイエで死に似た眠りについており、夢を通して人間に影響を与える。
フレーズ:Fhtagn(フタグン)
作中で何度も登場する呪文「Ph’nglui mglw’nafh Cthulhu R’lyeh wgah’nagl fhtagn(死せるクトゥルフはルルイエにあって夢見ながら待っている)」の一部であり、クトゥルフ信仰の象徴的な文言である。
考察
この作品は、偶然的に見える断片的な情報が、ひとつの背筋も凍る真実へと繋がっていく構成を持つ。
また、クトゥルフは単なる怪物ではなく、宇宙的恐怖の象徴として、知性と存在の意味そのものに対する根本的な不安を喚起する存在である。
まさにラヴクラフト的コズミック・ホラーの原点とされる作品である。