『北極星(Polaris)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『北極星(Polaris)』は、H・P・ラヴクラフトが1918年に執筆した短編小説であり、夢と現実、運命と失敗、宇宙的無力感をテーマに据えた哲学的かつ幻想的作品である。
本作はラヴクラフトの夢日記に由来する要素を色濃く含み、後の「夢の国」サイクルの原型とされる。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集7』に収録されている。
目次
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

語り手である主人公は、アーカム近郊の沼沢地に建つ小屋に住み、北の窓から常に「北極星(Polaris)」を見つめている。
物語は、この北極星の不気味な凝視と囁き声に取り憑かれた主人公が、自らの現実感の崩壊と、繰り返し見る夢とのあいだで精神的に揺れ動く様子から始まる。
ある日、オーロラが空に広がる晩、主人公は眠りに落ち、そこから彼の意識は異世界へと移行する。
夢の中で彼は、ラライ(Lomar)という高原の地にある壮麗な都市オラニス(Olathoë)の住人となっていた。
彼はそこに長く住んでいたことになっており、自分の本来の世界が幻想に過ぎないと思うようになる。
この夢の世界では、ラライは北方から進行する蛮族インクー(Inutos)の脅威に晒されていた。
彼は都市の防衛を担う要職に任命され、北方の塔にて敵の接近を監視する任を与えられる。
その任務において、彼は「決して眠るな」と命じられるが、ある晩、北極星の光に見とれた末に眠ってしまう。
そしてその瞬間、夢から覚め、現実のアーカムの小屋に戻ってしまう。
その後、彼は夢に戻ることができなくなり、現実世界に閉じ込められたまま、かつて自分が破滅させた夢の都市の記憶に苛まれる。
北極星は彼を見下ろしながら、「すべてを見ていた」と囁き続ける。
物語は、主人公が自分の現実こそが偽りであり、ラライこそが真実であったのではないかという苦悩とともに幕を閉じる。
登場人物
語り手(主人公)
アーカムの近くに住む名前が明かされない孤独な男であり、精神的に不安定。
夢の中では高貴な地位を得ており、責任を果たすべき立場にあったが、現実に戻されたことで破滅的な罪悪感を抱く。
北極星(Polaris)
実体を持たない星であるが、語り手にとっては擬人化されており、目撃者であり告発者であり、宿命を語る声として作用する。
語り手にとっては、運命の象徴であると同時に、呪いの根源でもある。
インクー(Inutos)
ラライに侵攻してきた北方の蛮族。文明を脅かす存在であり、夢の中で語り手が監視すべき対象であった。
地名
アーカム(Arkham)
ラヴクラフト作品で頻出する架空の町であり、現実世界の象徴として登場。
ここでの生活は、主人公にとって灰色で無意味なものである。
オラニス(Olathoë)
ラライ高原に築かれた夢の都市。建築や文明が栄え、芸術と秩序に満ちた空間であり、語り手にとって理想郷(ユートピア)であった。
ラライ(Lomar)
北極圏にあるとされる古代の土地。後のクトゥルフ神話にも登場し、人類以前の高度文明が存在した場所とされる。ラヴクラフト作品における「失われた時代」の代表的地名の一つ。
解説
『北極星』は、ラヴクラフトが探究し続けたテーマである「夢と現実の境界」を正面から扱った作品である。
主人公は、現実よりも夢を真実と信じ、その夢を自らの過失で失ったことにより永遠の後悔に囚われる。
彼にとって、現実世界は牢獄であり、夢の中こそが本来の生であったという倒錯的な構造が全編を支配している。
また、本作では北極星という宇宙的存在が、主人公の「罪」を永遠に見つめ続ける存在として描かれている。
これはのちのラヴクラフト的宇宙観、すなわち人間は宇宙の真理の前に無力であり、すべてを見通す冷徹な存在の前で裸であるという恐怖の前触れでもある。
夢の都市ラライとアーカムのコントラストは、「美と秩序」と「無意味と閉塞」の対比であり、それはまたラヴクラフト自身の内面世界を反映している。
『北極星』はその幻想的な描写とともに、深い内面的恐怖と喪失感を提示する傑作である。