『冷気(Cool Air)』(H.P.ラヴクラフト著)の解説

『冷気(Cool Air)』は、H・P・ラヴクラフトが1926年に執筆した短編小説であり、現実の都市ニューヨークを舞台に、死と科学の限界、そして異常な執着をテーマに描かれた怪異譚である。
エドガー・アラン・ポーの『ヴァルドマアル氏の病症の真相』に触発されたとされるこの作品は、ラヴクラフトがポオ的様式から脱却する過程において執筆されたものであり、冷気という物理現象が生々しい死の象徴として機能している。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集4』に収録されている。
注意
読者の体験を損なう可能性があるため、本解説を読む前に先に物語を読んでおくことを強く推奨する。
書籍の表紙以外に掲載しているイラストはあくまで本ブログによる創作物であり、公式に発表されているものではない点に注意して頂きたい。
物語の概要

物語は、語り手が「自分がなぜ冷気に強い嫌悪感を抱くようになったのか」を説明する回想という形式で始まる。
舞台は1923年のニューヨーク。
作家志望の語り手は安下宿を転々とし、ついにはある古びた褐色砂岩のアパートに落ち着く。
その上階には、冷房を異様に強くした部屋に閉じこもるスペイン人の老医師ムニョス博士が住んでいた。
語り手が発作に見舞われたとき、冷たく青白い手をしたこの博士に治療され、以後、語り手は彼と親交を深めていく。
しかし、博士の異常なまでの「冷気」への執着が次第に明らかになっていく。
博士は死を「征服すべき敵」とみなし、自身の死体を腐敗させないよう、部屋を極度に冷却しながら実験を続けていたのである。
ある夜、冷房装置が故障し、外部から氷をかき集めるも間に合わず、ついに博士は崩壊を始める。
語り手が浴室のドアを開けると、そこにはもはや人間とは言えない、液状化したような溶けかけの存在が残されており、博士が遺したメモには、彼が「すでに18年前に死んでいた」と記されていた。
登場人物
語り手(主人公)
作家志望の若者。
経済的に困窮しており、ムニョス博士と知り合い、彼の世話や雑務を手伝うようになる。
最終的には博士の本性と死の事実に直面する。
ムニョス博士
かつては著名なスペイン人医師で、死の克服を目指すマッドサイエンティスト。
極低温の環境で肉体の腐敗を抑えながら生き永らえていたが、冷房の崩壊とともに最期を迎える。
すでに18年前に死亡していたという記述が、読者に最大の戦慄を与える。
エレーロ夫人と職工たち
事件の後、気が狂いかけながら警察に駆け込んだ人物たち。
博士の異様な最期を目撃している。
地名・設定
ニューヨーク市西14丁目
物語の主舞台。
都市の喧噪のただ中で怪異が進行するという構成は、通常の怪談とは異なり、日常に潜む非日常の恐怖を際立たせている。
ムニョス博士の部屋
華氏28度(約−2℃)にまで冷却された異常空間。
医学と死をめぐる実験室であり、同時に自らの死体を保つ墓所でもある。
解説
本作は、「死を克服しようとする人間の執念」が、最終的に肉体の腐敗という物理的現実に敗北する悲劇を描いている。
ムニョス博士の存在は、現代的な科学者であると同時に、ゴシック小説の亡霊のようでもあり、その冷却室は現代の霊廟のような異様な空間である。
また、作品全体を通じて「冷気」は単なる気温ではなく、「死そのものの気配」「生理的嫌悪の象徴」として機能しており、ラヴクラフト独自の身体的感覚を通じた恐怖描写が光る。
語り手の回想の語り口により、物語は終始淡々と進行するが、終盤に博士が「私はすでに死んでいた」と告白するくだりは、読者に戦慄を与えるオチの効いた恐怖譚となっている。